MENU

Blog


ブログ

ファッションは文化か?


2024.10.31

個人的な解釈では、半分はそうであり、半分は少し違うという感覚です。
文化=カルチャーと言えば、ファッションと文化は非常に相性がよく、それを否定する理由は見当たりません。
しかしファッションそのものが文化であると考えるより、ファッションは文化と関りをもった一つの物質文明であると言ったほうが、しっくり当てはまるのかもしれないとも思います。
久しぶりのブログは、個人的見解が中心の、ちょっとだけ理屈っぽい、その実はどうでも良い内容です(笑)

【文化と文明】

ファッションカルチャー・文化(Fashion Culture)と言っても、ファッションシヴィライゼーション・文明(Fashion Civilization)とはあまり言いません。
これは世界的に見ても、同じです。
そもそも文化と文明は近いようで、異なる意味の言葉ですから、当然と言えば当然でしょう。
広辞苑を見てみると

文化 ③ 人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。(中略)西洋では人間の精神的生活にかかわるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強いものを文明と区別する
文明 ②ア 生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等など原則が認められている社会、すなわち近代社会の状態

とあります。

【ファッション文化】

ファッション文化とは、ファッションが独立して形成しているものではなく、その時代の様々な文化(思想、芸術、音楽、道徳、食事など)と、相互影響をしあって、形成されているその時代における、ひとつの表現だと考えています。
それは特別高尚なものではなく、日常的に接する文化の中で、日々生まれたり、常に変化をしたりしている、掴みどころのないものです。
それが意味することは、当然誰もが自由であることを、疑う余地はありませんが、相互影響をするということを考えると、現実にあるTPOに対して破綻するものを「自由だ!」という理屈だけで、なんでも受け入れられるわけではありません。
つまり、今ある広義の文化の中で、ある一定の社会性ルールに従って、表現することが、ファッション文化として認められるのではないでしょうか?

【ファッションの自由性】

先の考え方に「ファッションなんて個人の自由だ!」、と反論があるのは当然だと思います。

しかし、仮に人間の大切な部分を覆わない、または透明な素材でできた洋服を身にまとう自由まで認めても、文化だと言えるでしょうか。
それは極端にしても、何十日も洗濯していない、周囲が困惑するような衣服までも、自由として、文化として、社会が容認してくれるでしょうか。
法的に問題になることもあり、答えは明らかだと思います。

この点は冒頭に記した「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果」の、成果の部分であり、なんでも受け入れなければならないことを許容しろ、と主張することは、ファッションカルチャーでも文化ではありません。

【文明なら自由を許容するのか】

文明は文化を内包する、更に広義の意味合いを持っています。
ならばファッションシヴィライゼーションは、ファッションの自由(衣服による表現の自由)を認めることになるのでしょうか?

そもそもファッション文明という表現が、非日常的ですが「生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等など原則が認められている社会」、から考えると、人間が被覆を獲得してから、進化してきた最低限の状態を担保した、健全な状態を指すと考えられます。

つまり、文明をもってしても、やはりTPOの壁を突き抜けて、自由を謳歌することを認めているとは考えづらいのです。

【自己表現の限界】

表現の自由がある以上、何を着ようが、どう着ようが知ったこっちゃない。
法律に反していなければ、ギリギリ限界を突き詰めて、何が問題だ?という考えの方もいらっしゃるはずです。
しかし、それは社会の一部である「芸術」などの分野で表現すべきであり、広く開かれた日常社会に持ち込むものでは無いのです。

人と人の対面での出会いは、まずは外見から印象を汲み取ります。
その印象は強く、紳士淑女的である、カジュアルな方である、だらしない方であるなど、様々なキャラクターを、その時点で恒久的なものにするかもしれません。
それほど第一印象は、強力なものなのです。

更に言えば、第一印象は特定の人にだけ働くのではなく、社会で行動している限り、すれ違う人や遠くから見ている人にも、同じように働きます。

スーツ、制服、作業着、カジュアルだけでも、その人の職種などが、ある程度推察されるのと同時に、それらのメンテナンス状態次第では職種に限らず、仕事のできる人、そうでない人の印象付けがなされることがあります。

普段着でも同じでありカジュアル、ドレッシー、アウトドアなど、どんなファッションでもそのメンテナンスや着こなしは、必ず見られており、見る人個々の評価基準で、どのような人柄か判断されていると考えるべきです。

【文化を包む社会】

このように、ファッション文化は相当に寛容ではあるが、それは社会に内包されている前提を忘れないことです。
多くの人々は日々、働く・遊ぶ・休むの中で生きています。
働く、遊ぶ間は少なくとも、相当意識したファッションカルチャーで、社会との関りを持つべきでしょう。

そして制限のない自己表現は、閉じられた空間で休む時(具体的には自宅内などで)、大いに楽しまれることをお勧めします。

それが正しい「ファッション文化」の解釈ではないでしょうか。

Takeshi Yomo